霧ヶ峰は躑躅の名所でもある。
そもそも信州には躑躅が多い。満願寺や須砂渡渓谷の躑躅、八ヶ岳高原の更紗灯台躑躅は既に紹介したが、他にも美ヶ原、五味池破風高原自然園、高ボッチ高原、高峰高原、乗鞍高原、松原湖高原、湯の丸高原と、目白押しである。
信州には「躑躅乙女」または「躑躅の乙女」という民話が有る。正確には小県郡山口村というから、現在の上田市上田山口の辺りだろうか。そこの娘が松代の若者に恋をした。日に日に募る想いを堪え切れず、毎夜、松代の若者のところに通うようになった。出る時に手に持ったもち米が、着く時には熱い餅になる程に、無我夢中で通った。初めは喜んでいた若者は、しかし徐々に気味が悪くなって来る。男でも辛い夜の山道を、毎夜、事もなげに通って来る。これは魔性のものではないのか。このままでは取り殺されてしまう…。恐くなった若者は遂に或る夜、山道で娘を待ち伏せ、崖の下に突き落として殺してしまった。それ以来、その山には娘の血のように赤い躑躅が咲き乱れるようになったと。(松谷みよ子『日本の伝説 上』(講談社文庫 昭和50年)に拠る)
場所は、太郎山から大峰に向かう途中の「刀の刃」と呼ばれる難所と言うから、この地図で言うと、太郎山の北少しのところに有る、左右が崖となっている峰の辺りではないだろうか。今では道も無いようである。
躑躅を見るといつもこの話を思い出して、切ない気持ちになってしまう。躑躅はそんな、哀しい花でもある。萬葉集には次のような長歌が有るが、何か「躑躅乙女」の元となっているような気がしないでもない。
物思はず 路行く行くも 青山を ふり放け見れば つつじ花 香少女 櫻花 榮少女 汝をぞも われに寄すとふ われをぞも 汝に寄すとふ 汝はいかに思ふや 思へこそ 歳の八年を 切り髪の よちこを過ぎ 橘の 末枝を過ぐり この川の 下にも長く 汝が心待て
物不念 路行去裳 青山乎 振酒見者 都追慈花 尓太遙越賣 作樂花 佐可遙越賣 汝乎叙母 吾尓依云 吾乎叙物 汝尓依云 汝者如何念也 念社 歳八年乎 斬髪 与知子乎過 橘之 末枝乎須具里 此川之 下母長久 汝心待
物も思わず道を歩いて行きながら、青山を振り仰いで見ると、そこに咲いているツツジの花のように色美しい少女よ、桜花のように咲き盛る少女よ。お前と私と仲がいいと噂しているそうだ。私とお前と仲よしだと噂しているそうだ。お前はどう思う?(以上男の問) 慕わしいと思っているからこそ、その長の年月、年も行かない時代をすぎ、橘の上枝をこえる背丈になるまで、心の奥深く、長いことあなたの気持が私に向くのをお待ちしていましたのに。(以上女の答)
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